アニメ見た備忘録_220205:プラチナエンド17話

 昔なんとなく思ったことがアニメの演出でもピッタリはまる所で出てきて嬉しかったので、もうちょっと考えをまとめるか。という事でプラチナエンド17話の話。

 プラチナエンドが後半になるにつれ段々面白くなってきたなと思ってきてて、それはなんでかというとデスノートっぽい設定でデスノートでやらなかった事を敢えてやってるのが見えて来たからかなと考えている。デスノートのような本当に神となってもおかしくないレベルの圧倒的な天才はおらず(第1部のボス生流奏がせいぜい並の天才とでも言うべき設定なのもわざとそうしてそう)、架橋明日という特別なスペックは無いけど誰も殺さない事を守り通したい人間が主人公なお話。勿論奏の死は架橋君と咲ちゃんの幇助みたいなもんなんだけどそこは奏に突っ込ませてるからしっかり意図的だし。
 まあそんな普通の人たちが神候補なのだが、最近は神候補以外の仲間も増えてきた中で、17話では自殺願望のある少年・中海君を止めるための神候補以外の仲間たちの台詞がちゃんと作用してるのも良かった。南河のこうして知り合った以上死なれたら気分悪いという台詞にあるような人情に訴える説得が意味のあるモノになってるというか。
 デスノートでは月とL、ニア以外が喋ってる時の台詞はいずれも物語とは無関係に切り離した演出している事が殆どで、月と近いようなイケメンで優秀な頭脳の持ち主の魅上でも舞台装置の役割であったと思う。たとえ刑事たちの正義感溢れる台詞が発されたとしても、別にこれが「漫画で感動した名言名シーン」みたいなものにセレクトされる事はないかなと思うような、言葉の意味自体は頭に入れても入れなくても漫画の展開的にはどうでも良い感じに敢えて処理されていたんだけど、プラチナエンドでは神候補もそうでないレギュラーキャラも対等な立ち位置だから非神候補からの中海君への説得がちゃんと視聴者にとっても良いシーンになっているなと思えた。

 そんな対等さが描かれてきたのをここまで見てきて噛みしめていた所で冒頭のスマホで撮ってる群衆のシーンがやってくる。一斉に同じようなポーズをして空を見上げているのは正しく神にすがっているような仕草だけど、けして信仰心からではなく単に空に浮いてる人間が珍しいからという奇異の目を向けているからでしか無く、実際の神と天使達の手によって望まず神候補にされた架橋君たちが周りの人間からも祀り上げられ双方向にリンクしているサマが凄く良いなと思ったのでした。